広島で⑪
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さて、今回は広島で聞いた被爆体験。少し長くなりますが、ぜひ読んで下さい。
八月五日の分科会で神奈川にお住まいの男性から被爆体験をお聞き
しました。聞いたあとすぐに、メモをおこしましたのでできるだけ
聞いたとおりに書いてみます。
昭和五年生まれの77歳。当時は14歳。中学二年生ですね。爆
心地から1㎞ほどの家で被爆。大手町と言われていました。今は区
画が変わり違ってはいるけれど……………
前夜、瀬戸内地方はあちこちで空襲の被害があり、一晩中警報が
鳴りっぱなしだった。朝方になってようやく解除になったため、子
どもたちも大人達もみんな寝不足状態だった。
しかし、お母さんは朝ご飯の支度をし、父親は高知への出張へ旅
立って行った。後に聞けば、父親は電車の中で遠くヒロシマの方に
閃光が走ったのを見たと。
その瞬間、自分と弟は2階でもう一度朝寝に入ったところだった。
ところが、1階がぺしゃんこにつぶれて自分たちは屋根の下敷きに
なった。どうにか板を押しのけて弟と這い出ると、あたりは真っ黒
焦げと火の海。
母と妹は柱と柱に挟まれて、身動きできないままだった。まるで
中澤啓治作の「はだしのゲン」と同じ状況・あのシーンを思い描き
ます。その日のヒロシマでは「ゲン」があちこちにいたんだなと気
づかされます。
「行きなさい。逃げなさい。」
の母親の言葉。胸に突き刺さります。弟もなんとかしようとやって
いるうちに一本の柱が燃え尽きてしまいました。すると、動けるス
ペースができて、妹ともども救出。しかし、妹は脇腹に大きな穴が
開き、右足首も何かにかみつかれたようなひどい傷跡。母親は背中
に大やけどを負っていた。
4人でヒロシマの街を逃げまどう。線路を越えて、市役所の広場
へ。しかしそこも火の勢いがすごく、熱風に包まれて、別の「建物
疎開」をした空き地・広場へ。
防火用水に何度も入り、体と衣服を冷やしての避難。でもすぐに
服は乾き、体も熱くなってくる。防火用水にはボウフラがわくのを
予防するための乳液剤も入っており、何度も吐きだしては水に入っ
た。父親の話では、後々これを吐きだしていたのが良かったのでは
ないかと言われた。
さて、父親との再会は。
徳島に着いた父親は、会社の人から
「ヒロシマが大変なことになっているらしいから、はよ帰れ。」
と言われ、ヒロシマへとんぼ返り。ところが焼け跡には家の跡形も
なく、あーあと絶望のどん底に陥る。
あちこちの収容所の名簿を探し回り、ついに家族の名前を見つけ
出し、収容されていた病院へ駆けつける。息子である自分や弟たち
は父親が必ず探し出してくれるものと信じ切っていたわけだが、父
親は息子の剣道の防具=お面の鉄の部分以外焼けてなくなっている
のを見て心底絶望していた。それだけに元気でいた家族を見ておい
おいと泣き崩れる。(武藤はここでナミダがドボっと出てしまいま
した。)
妹が最初に死に、次に母親が逝った。13年前、医者になってが
んばって生き抜いた弟も肝臓ガンで死ぬ。
一人ぼっちになってからこの語り部を始めた。
最後にこう話を締めくくられました。
「私にとって、原水爆禁止運動の原点は「被爆の体験」です。これ
を語り継ぎ、未来につないでいくことです。それが核兵器をなくす
道だと思っています。」
ことんと胸に落ちました。
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時間を見つけて、原爆資料館に行きました。8月6日はこの近辺で日本の首相も来てスピーチする場所ですね。資料館はすごく混んでいました。修学旅行の生徒や「ツアー」の一行らしい親子連れの方達、外国旅行者の皆みなさん。私はすでにとっていますが、この資料館が発行する「メルマガ」を読んでみてください。
http://www.pcf.city.hiroshima.jp/
また、バーチャルミュージアムへもどうぞ。
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